小田実の本「中流の復興」を読んでいます。学生時代に読んだのは「世直しの倫理と論理」だったでしょうか。もう覚えていません。「殺される側の論理」などという言葉が蘇ってきました。この言葉今も少しも色あせていません。それどころかますます今の世界では強いメッセージを発しています。
序章「被害者にも加害者にもならない未来へ」を、小田は”戦争の臭い”という表題で書き始めています。”戦争の臭い”とはすなわち死体の臭いです。当時中学生だった彼が焼け跡の片付けに動員され、がれきの中から引きずり出した腐った死体の臭いのことです。これは強烈な印象として残り彼は戦後食料がない時代にも配給されたあるものの缶詰がどうしても食べられなかったそうです。小田実があくまでも「殺される側」の視点を持ち続けてその後の平和運動を続けていったことのこれが原点だったのでしょう。
この夏NHKで旧日本軍の南洋諸島やインドシナでの悲惨な戦いを既に齢80代になられている当時の兵士の方々の証言で綴る特集シリーズを放送していましたが、実際に戦地で戦った兵士達の悲惨さは想像を絶するものがあります。この世の地獄のような証言でした。彼らが今までなかなか重い口を開かなかった理由がよくわかります。彼らは「殺される側」でもありまた「殺す側(実際に手を下して殺すように命令される側)」でもありました。とくに「殺す側」としての行為は家族にさえ話さず墓場まで持って行こうと思っている方が多いのではないでしょうか。
戦争とはそれに巻き込まれた一人一人の庶民にとっては、テレビや新聞のニュースなどではなく、ましてや歴史書や教科書上の出来事ではありません。自分自身や身近な人の死であり、あるいはまた自分自身が人殺しになることです。私たちにとって戦争とは死体の臭いそのものでしかありません。”正義の戦い”、”テロとの戦い”、”聖戦”、どんなに美辞麗句を並べようとつくりだしているのは死体の山です。
小田実は言います、「軍人の思想、戦争の思想に巻き込まれてはいけない」と。テレビのニュースや政治番組で中東の戦争やそこに派遣されている自衛隊が論じられているのを視るとき、私たちはつい為政者や司令官になったつもりで思考しがちです。それは今、声高に叫ばれている”国際貢献”、”テロとの戦い”、”何物にも代え難い日米関係”などという言葉のまやかしにも通ずるところです。しかし視聴者の九分九厘は実際の戦争では「殺される側」や「殺す側」に否応なくされてしまうはずです。「殺すように命令する側」の論理、「死体の臭いの届かない所で命令を下している側」の思考に巻き込まれてはいけないということでしょう。
久し振りの小田実は徹頭徹尾市民の目で世の中を見ていくことをあらためて思い起こさせてくれました。私は国家ではありません。ちっぽけな一人の市民です。だからこそ市民の目で世界を見つめ、市民の論理で戦争を考えていこうと思います。
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