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2006年8月13日 - 2006年8月19日の2件の記事

2006年8月15日 (火)

8月15日

Hiroshima

61年前の8月15日、私たちの国日本は敗戦を迎えました。日本中の都市が焼け野原となり、広島・長崎は地獄と化し、地上戦が行われた沖縄でも多数の住民が死傷しました。中国大陸で、また南方の島々やインドシナで多くの兵士たちが、その尊い命を奪われ、また同じように尊い、敵兵やその地の住民の命を奪いました。戦争さえなければ皆、それがどんなにちっぽけなものだったとしても、夢や希望や幸せをそのかけがえのない人生で実現できていたでしょう。殺し、殺された人々の誰が好んで人の命を奪おうと、それまで思っていたでしょうか? 戦争さえ無ければ、どんなに違った人生だったでしょう。8月15日は私たちが、戦争は何もかもを奪い尽くすまで続くことを取り返しのつかない犠牲を払って思い知った日です。

9jou

そして私たちは、二度と戦争をしないことを誓い、戦争放棄を唄った世界に誇る今の平和憲法を受け入れました。以来この60年間、私たちはどの国とも戦いを交えることなく、一人のよその国の人の命も奪うことなく、一人の日本人も国の命令で戦死することはありませんでした。

今日はそう言う意味で「平和の原点」、「平和の記念日」です。
今の平和な日本が生まれるための貴い犠牲となった全ての人々のご冥福を心からお祈りするとともに、今のまだ、辛うじて戦争に巻き込まれていない幸運をおおいに祝い合おうではありませんか!

Yasukuni

戦争で亡くなった人々を追悼すると言って、戦争遂行のために戦前造られた神社の参拝にこだわる政治家がいます。それに反対する人々に対し、非国民呼ばわりし、反対しているのは一部の外国だけだとうそぶく人たちがいます。戦争で亡くなった人たちを追悼する気持ちのない人がいるでしょうか? 人間として当然の自然の感情です。そしてその感情の表し方は人それぞれあるはずですし、それぞれの宗教観もまた千差万別でしょう。それなのにあるひとつの宗教の形式の参拝にこだわり、反対や懸念の声があることを当然知りつつ、強引に参拝する。私にはこれが、自然な追悼の気持ちの表出とは間違っても思えません。何らかの意図があることなのでしょう。

本来政治家の仕事は国民の生命と財産を守り、最低限でも幸せな生活を保証することでしょう。それからすれば戦争というものは、政治家が他の何を差し置いても回避しなければならないもののはずです。戦争こそが、国民の生命も財産も、最低限の幸せな生活も何もかも奪い取る最大の厄災だからです。周囲の国と緊張関係をわざと作りだしたり、軍備の増強を主張したり、さらには先制攻撃を主張したりと勇ましいことを言う政治家は、その最低限の仕事を放棄した無能の役立たずです。

Koizumisagi

靖国神社に祀られている人々は、その”魔の手”から祖国やそこに住む愛する家族を守ろうとした、まさにその主要な敵国であった米国に国富を売り渡し、そのお先棒を担いで大義のないイラク戦争に自衛隊を派遣し、自分たちと同じ運命にあわせたかもしれない今の首相が、参拝することを果たして喜んだでしょうか?

Abef

天皇の扮装をさせた信者にぬかずかせるような教祖を持つ似非キリスト教の合同結婚式に祝電を送って、「地元事務所がしたこと」と平然と言い放ち、「敵基地攻撃能力を持て」、「核武装せよ」と公言する次期首相最有力候補が参拝して、嬉しいでしょうか?

戦争とは、無条件降伏で絞首刑にでもならないかぎり絶対に自分たちは死ぬことのない、無能で役立たずの政治家が始めて、それに迎合したマスコミが好戦的な世相を創り出し、踊らされた普通の人々が、残酷に、惨めに、情けなく死んでいくことです。

8月15日は、この国が戦争の愚かしさ、平和の尊さを思い知った記念すべき日です。戦争賛美の軍国神社にお参りする日ではありません。

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8.15

Peaceday3


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